私たちが生きている世界とは(2)

肉体として生きている世界

 私たちは母の胎内から生まれてきます。父と母の子として自分の命が宿り、母の肉体を通して誕生します。この事実から自分を肉体として認識します。この自分は肉体であるというとらえ方は、本当に正しいのでしょうか?

 「私の肉体」「私の身体」という言い方をしますが、これは自分の身体(肉体)と私とは別のものであり、自分の身体は自分の所有物であることを言い表しています。つまり肉体ではない私が存在していることを感じさせます。私とは自分の肉体に宿っている生命です。生命そのものが自分自身なのです。肉体は自分(生命)の使う道具のようなものといえます。

 命が宿るというのは、母の胎内でできた肉体に命が宿るということを表しています。人間がこんな高度な生命を創れると思いますか?心臓の機能、目の機能などどのようにして母が創れますか?こんな精巧な生命など自然にできますか?明らかに統一された「生命の法則」が働いているからに他なりません。

 私たちはこの肉体を生かしているのは自分だと思っています。自分が食事をし、運動をしこの身体を生かしていると思っています。しかし心臓を動かしたり、呼吸をしたり、新陳代謝を行ったりのはたらきを自分でコントロールできますか?できないということは自分が自分の肉体を生かしているとは言えません。肉体は自分の所有物であっても、その生理機能をコントロールしているはたらきの元は別にありそうです。

 「私の肉体」であっても、私が自分を生かしているのではないということがわかります。自分を生かしているしくみについては後ほど触れます。

 「自分は肉体である」という思い、考えが、「人間は物質である」という観念をつくりあげ、病気やさまざまな苦しみの状況を創り出しています。人間を物質としてみているから病原菌を恐れ、物質的、肉体的な欲望に翻弄され、多くの人が本当の自分を見失っています。

 肉体には食欲、情欲などの快楽的な欲望、さらには物質的な豊かさ、あるいは容姿や見栄といった世俗的な望みがつきものです。そうした欲望や思いを捨て去ることは、なかなか難しいですね。それは自分の思い、自分の欲望だと思っているからです。またそれは肉体的な喜びをもたらしてくれているからです。

 でもそれは肉体の欲望や思いであって、自分自身の生命の望んでいる姿ではありません。自分の生命は、気高く、美しく崇高な精神的なものを本来求めているのです。だから心が望んでいないような醜い行動をしたときなどは罪悪感と惨めな気持ちになります。それこそが人間の本質だからです。

 しかし私たちは肉体で生きているのも事実ですので、ある程度その欲望や思いを満たしてやることは必要ではないかと思います。

もちろんそれらの世俗的な欲望や望みを上手にコントロールして、みごとな人生を生きている方もたくさんいらっしゃいます。スポーツ選手をはじめとして多くの人が、高い目標に向かって人生を崇高に生きています。しかし私たちが生きているこの世界には、多くの犯罪、争い、対立、事故といった悲惨な状況もあふれています。私たちはこの崇高さと醜さの交錯している世界を生きていることになります。また豊かさと欠乏、健康と不健康も交錯し、私たちを悩ませています。

 私はこの混沌とした世界から抜け出し、幸せの多い、人生の新しい扉を開いていく道を明らかにしていこうと思っています。それには今生きて感じている世界観を変えていく必要があります。

 私たちの生きているこの世界には、見えざるしくみがあります。そのしくみを知ることが、私たちの人生の新しい扉を開く鍵です。私たちが見て感じている世界は、五官(肉体)を通して、認識している世界です。それは影の世界と言える世界なのです。私たちが今まで生きてきた喜怒哀楽の心や望みなどの自分の心の影を現している世界なのです。その世界を現象世界といいます。

 肉眼に見える肉体的姿を自分自身だと思っている限り、本当の自分を知ることはできません。人間とは何か、これを知

ることが幸せな人生を送るうえで、とても大きな意味をもってきます。

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